文化・歴史

450周年記念:黒田九兵衛と加藤家の歴史(6)会津の謎解き

会津若松時代の謎を解く

伊予松山藩加藤家は1627年に蒲生家と交代で会津藩40万石に転封となりました。加藤嘉明はまだ存命で、黒田九兵衛は二代目直次が松山で戦死した後を弟の忠直が三代目九兵衛を継いでおり会津について行きました。

蒲生家時代は1611年にマグニチュード7の会津地震が襲い、若松城の石垣が崩れ城下町も倒壊した。一方で、会津三大金山と呼ばれる朝日鉱山・石ケ森鉱山・高玉鉱山などで280万両の採掘が行われたそうです。

加藤嘉明が会津城に入城した時はすでに65歳であり、4年目の1631年には他界し、嫡子の加藤明成が藩主となりました。明成の時代のビッグイベントは1634年の三代将軍徳川家光の上洛で黒田九兵衛忠直も先手組と大筒隊を指揮して加藤明成に随行して上洛に参加しました。

転機は1639年の会津騒動でした。加藤明成は責任を取って1643年に会津藩を返上し引退、子の加藤明友が石見吉永藩1万石として加藤家は存続しました。黒田九兵衛は4代目直良の時代でした。加藤明成から綿伊北布(後述)を褒美としてもらっていますが、改易により、直良は一旦は加藤明成の娘を正室に迎えた摂州尼崎城主の青山膳亮幸利に引き取られたのちに、久松松平家桑名藩の足軽大将として召し抱えられ、その後近江水口藩2万石で加藤家が譜代格として復活したのちに水口藩加藤家に戻っています。ちなみに、東京都港区の青山地区は青山氏の江戸屋敷があったことに由来しています。

今回、会津若松を訪ねるに際して、現地の資料は全くないことを事前に確認しています。加藤家転封後に入った松平家(保科氏)の資料が現存しているだけです。ただ、地震で損壊した会津若松城を修復し、仙台伊達家の動きに備えるために新たに北出丸など北側に備えを増強するなどを行なっていたことは分かっています。地震からの復興と城の修復、江戸城普請などの多額の出費を賄うために、財政は厳しく、上方商人からの借金もあり産業振興などの経済政策にも力を入れていたはずです。

黒田九兵衛忠直や直良は武家屋敷に住んでいたはずですが、蒲生氏またはそれ以前からの住居地区です。伊予松山や近江水口では鉄砲大将のエリアとして城近くに住んでいました。松山では松山城のすぐ北側に鉄炮町という地名が残っています。しかし、会津の鉄炮町を調べてみると西に16kmも離れた会津坂下町に鉄炮町があります。現地の役所に聞いてみても正式な由来は分からず、古老の話によると昔は鉄砲鍛冶が住んでいたということでした。鉄砲隊の住居ならば、城のすぐ近くにいなければ護衛はできないので、その理由が分からず謎でした。

また、4代目黒田九兵衛直良が藩主から褒美でもらったと記述の残る「綿伊北布」というのも不明で、伊南という地区はあるが、伊北という地区は明治以降の歴史ではなく不明とのことでした。ただ、会津若松南西部の伊南川を境にして北と南ということは想像できます。

鉄砲町の地名がある会津坂下町も、綿伊北布もどちらも会津若松から西側の一帯です。この地域に何らかの謎があり、その謎解きをする必要があると考えました。

ヒントは

  1. 会津城の西16kmも離れた場所に鉄炮町。昔は鉄砲鍛冶がいたらしい。近江国友衆の鉄砲鍛冶職人は江戸時代に全国に広がった。
  2. 伝統工芸の会津木綿は、蒲生氏郷が前任地の伊勢松坂から綿花栽培と木綿の製織技術を伝え、加藤嘉明が松山から織師を招き、伊予絣の技術と伊予縞という縞柄のデザインを伝え、会津木綿が生まれた。会津坂下町青木地区は織物産業の中心的場所だった。伊北という地区名は今は存在せず只見町方面と考えられるが、伊北で栽培した綿を布にしたのが只見川で輸送できる下流の会津坂下町と考えれば辻褄が合う。4代目黒田九兵衛直良が藩主加藤明成から下賜された「綿伊北布」とは特産品として完成した会津木綿であったと考えられる。
  3. 会津城の西27kmの山に当時国内屈指の銀山だった軽井沢銀山があり1千戸ほどの住人がいた。この銀山は会津三大金山とともに会津藩の財政を担う重要な財源だった。さらに
  4. 福島県南部の荒海山(標高1580m)に源を発し、山間部を北に流れて会津盆地に至り、只見川と合流して西の峡谷を通って要諦の野沢宿(今の西会津町)と阿賀町を抜け、新潟に至り日本海に注ぐ阿賀川。この阿賀川での舟運が重要な意味合いをもっていた。この河川交通は、蒲生氏郷・加藤嘉明親子・保科(松平)正之にとって代々重要事業だった。新潟湊は北前船の中継点として日本海東側海路の最重要拠点で、新潟湊まで運べば敦賀から近江長浜、そして琵琶湖を通って京都や大阪との間で物資輸送ができる。鉄砲製造に必要な資材や軽井沢銀山で必要な銀を磨くための塩(当時は硫化塩で銀を磨いていた)を会津に届け、会津からは米や特産品の会津木綿、そして大阪商人で流通可能な会津銀判 (一両・二分・一分)を会津から上方へ輸送できる。

こう考えると、現在とは異なり、会津若松の西側で新潟に至るまでの一帯は重要な戦略拠点であったことが分かるのです。会津騒動で減封となった加藤家は存続が許されて移った先が石見銀山にのある場所に石見吉永藩1万石が新たに立藩されました(現在の島根県大田市)。これも加藤家が軽井沢銀山の経験があったことも考慮されていると考えられます。ちなみに、石見銀山で漆塗りが根付いたのは加藤家が会津塗りの職人を連れてきて財政難を凌ごうと考えたことに端を発しています。その後、譜代格に復権して近江水口藩を立藩したあとは、石見吉永藩は廃藩となり石見銀山は直轄領となっています。もともと加藤家は水軍の将の名声を得て、黒田九兵衛は水軍と鉄砲隊を指揮する近江長浜の家柄として仕えました。会津移封後は内陸の会津で水軍の腕は振るえませんでしたが、河川交通と北前船の護衛として鉄砲隊を指揮したのかもしれません。そう考えると会津坂下町の鉄炮町は縁があると思えて仕方がないのです。

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