文化・歴史

450周年記念補稿 (1):会津を訪れてみて

3代目黒田九兵衛忠直

元和四年(1618 年)陸奥国会津御拝領の節其の供仕り其の節二百石御加増下し置かれ都合六百石と成り下し置かれ

寛永十一年(1634 年)七月御上洛の節圓通院様供に就き奉り遊ばされ候。御先乗仰せ付けられ御先手組外に御持筒拾人差し添えられ御供仕り

同廿年(1643 年)五月三日圓通院様会津差し上げられし後勢州幸名城主松平越中守定綱候罷り出宛行三拾人扶持二百石下し置かれ御物役相勤め慶安二年(1649 年)正月七日病死仕り候

4代目黒田九兵衛直良

圓通院様の御代 召出され知行百石下し置かれ 綿伊北布預り仰せ付けられ
会津差し上げられしの後 摂州尼崎城主 青山大膳亮幸利候に罷り出で知行百五十 石下し置かれ

慶安元年冬実父忠直手前嗣子無きに依り青山候に暇相願い幸名引寄翌年病死に就き家督仰せ付けられ其の後物頭相勤め候

黒田家家伝

黒田家家伝での会津時代に関連する表記はこの2つのみで、実際に会津時代がどのようなものだったのかは推測するしかりません。3代目忠直は松山で戦死した2代目直次の弟で、加藤嘉明から黒田家を継ぐことを申し付けられ 400石の鉄砲大将を務め、会津移封の3年前の大阪夏の陣では加藤嘉明の子の加藤明成の初陣を補佐しました。会津に移ってからは600石取りとなり、将軍家光上洛の際に加藤明成のお供の先発隊となっています。当時の家臣の石高は不明ですが、幕末期の会津藩家老の西郷頼母が1600石だったので、重臣であったことは間違いないと思います。4代目直良は加藤明成から綿伊北布(会津木綿) を賜っています。会津騒動で加藤明成が会津藩を返上した後に、家臣団はリストラされたわけですが、父の九兵衛忠直は久松松平家桑名藩の鉄砲大将になり、子の九兵衛直良は尼崎城主青山幸利の家臣になりました。そして父忠直の没後に、久松松平家桑名藩の黒田九兵衛を継いでいます。

  • そもそも鉄砲を生産できる環境だったのか?
  • そもそも綿伊北布(会津木綿の先駆け)が生産できる環境だったのか?
  • 銀山を開発できる環境だったのか?
  • 鉄炮町という名前が残り、しかも会津木綿の生産が盛んだった会津坂下町という会津若松城の西側という場所になぜ集まったのか?

この4つの疑問に対するヒントを得るには、現地に行ってみることが必要でした。私には初めての会津訪問で、もちろん会津若松城や武家屋敷も興味がありましたが、南から北上した方が良いと考え、塩原インターで降り塩原温泉を抜け、会津西街道を北上し南会津町経由で会津坂下町に向かいました。

鉄砲を製造するには、鉄・火薬・鍛冶職人が不可欠です。鉄砲鍛冶は近江長浜の国友衆が戦国期が終わり江戸期には全国に散らばっていました。敦賀から新潟湊を通り、会津に連れてくることは難しくありません。火薬に必要な硝石はかつては輸入に頼っていたのですが高価なこともあり、古土法や培養法などの人畜糞尿を加えた土を醸成させて硝酸カリウムを作る製法が普及していました。玉鋼の材料となる砂鉄は「どこから調達するのか?」と思っていましたが、最近になって会津若松城の東山の湊地区の猪苗代湖西岸に砂鉄層があり、十分にたたら製鉄が可能で、その名残の不純物の鉄滓や炭も発見されています。これだけ、揃えば鉄砲製造は可能だったと考えられます。

次に、木綿です。日本にインドから木綿の種が持ち込まれたのは古いのですが、栽培が成功して普及したのは三河です。そして徳川家康の生母の於大の方(久松松平家)も自ら栽培に成功して譜代大名たちにも奨励しました。それまでは、衣服は麻やからむしが一般的でした。それが木綿の生地ができることで生活が一変します。軽くて、暖かくて、通気性もあって、織布の手間もからむしの10分の1という高い生産性。今で言えばヒートテックのような素材が誕生したことになります。

木綿の栽培条件は主に2つ。温暖な場所であること。そして酸性土壌を嫌うことから適宜石灰などカルシウムを肥料として与えることです。そのため、当時として一般的なのは魚肥としての干鰯(干したイワシ)でした。三河から始まった木綿と機織りはその後、大阪や瀬戸内海周辺にも普及していきます。大量の干鰯需要を賄える地の利があったからです。しかし、干鰯の需要が供給を上回り、大阪の干鰯問屋で金銭で購入する必要が生じました。会津での木綿の栽培は蒲生時代という説と加藤嘉明という説がありますが、木綿の生地の生産は間違いなく加藤嘉明です。旧所領の松山から伊予絣の機織り職人を招いて始めたからです。今回、南会津町を走って温暖な会津盆地であれば木綿栽培は可能だろうと確信しました。それを川で下し会津坂下町のあたりで機織り生産をして、阿賀川を下って新潟湊から敦賀に運び、黒田九兵衛の故郷である近江長浜から琵琶湖を通り、京都や大阪に運び会津木綿を販売し、蒲生時代に崩れた石垣や天守閣の再建費用に充てる計画だったのだろうと思えるのです。干鰯は大阪から調達するのではなく、阿賀川が新潟湊に注ぐすぐ南に干鰯の産地の五十嵐干鰯を格安で調達できたはずです。加藤嘉明、加藤明成の二代にわたって行われた殖産興業の取り組みは、その後の松平会津藩主となった保科正之以降も続き、会津木綿として開花します。

明治大正期の大商人、福西本店

今回の会津訪問でお話を伺った地元の名家の福西本店の創業者ももともとは江戸時代に奈良で綿の商いをしていたそうです。福西家はその後明治大正期に活躍した大商人となり、東邦銀行のもととなる会津銀行を創設したり、他の事業を拡張させたそうです。また、会津に残る数少ない織元の坂下町の会社ではトヨタ自動車の創業者の豊田佐吉が開発した豊田自動織機を使って織っています。

次に、銀山開発です。会津には三大金山があり蒲生氏の時代から開発に着手しました。加藤嘉明はさらに会津若松の西で会津坂下町の南の山中で軽井沢銀山の開発に着手しました。銀を精錬する焼金法には大量の塩が必要です。一方で、上杉謙信が敵の武田信玄に塩を贈ったように、軍を維持するには食用の塩は必須です。会津地方では磐梯山から岩塩を採掘できるので山塩が一般的ですが、貴重な山塩は冷涼な会津城の地下に保管されていました。そのため、銀のための塩は海塩が良いと考えたはずです。於大の方の三河は地元の東浦町をはじめとして古くから一大製塩地帯でした。これも綿花栽培と同様に瀬戸内海周辺まで普及していきました。新潟においても阿賀川周辺から村上にかけて塩作りの適地がありました。

最後に立地ですが、会津若松城周辺には武家屋敷や商家や職人なども住んでいたと思います。しかし、鉄砲の製造、会津木綿の生産、会津銀の精錬といった新規事業としての殖産興業策は会津坂下町周辺の方が都合が良いと思えるのです。それは、阿賀川や只見川の水運を利用でき、河川整備事業が必要なものの阿賀川経由で新潟湊、そして敦賀を通って琵琶湖を経由して上方と交易するルートを想定すると、もっとも便利な場所で、しかも会津を虎視眈々と狙っている仙台藩の伊達氏からは会津若松城を挟んで遠い場所にあるからです。

そのような感想を得て、一応、私の中での疑問が解決し腑に落ちました。最後に、次回会津騒動を考えてみます。

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