文化・歴史

450周年記念補稿 (2):会津騒動を考察する-加藤明成の再評価-

人材育成の場である会津藩校の日新館は1803年に完成し、藩士の子弟は10歳になると入学しました。「ならぬことはならぬものです」で有名な日新館での心得である什の掟は松平会津藩の根本精神として語り継がれています。この日新館のもととなったのが、1664年に創設された「稽古堂」で日本初の庶民のための学問所で、松平会津藩の初代藩主保科正之は税を免除し奨励しました。

この稽古堂を創設したのは横田俊益という朱子学者で、将軍家に儒学を講義し、のちに武士の学校の最高峰である昌平坂学問所の前身を創設した林羅山に師事しました。横田俊益は、会津騒動で引退した加藤明成を「頭脳明晰な人格者である」と高く評価しています。横田俊益は林羅山に師事した後に、帰郷し加藤明成に仕えていました。会津騒動後に加藤家が石見吉永藩に減封となった際に、付き従うことを願い出ましたが認められず会津に残留しました。その後、1656年に度重なる招聘を受け会津藩主保科正之の侍講に就きます。そして稽古堂を創設、のちの日新館につながります。

加藤明成に対するイメージは、「荒淫残虐で暗愚な暴君(小説『柳生忍法帖』)」「偏執狂で片意地な性格(小説『亡霊お花』)」などの創作と「古今武家盛衰記(1914年黒川真道著」の叢書によって形作られています。古今武家盛衰記では加藤一分殿というあだ名をつけられるほど金銀を集めた守銭奴のように書かれています。つまり、①城の改築に熱心で、②金銀に執着し、③領民の税の滞納に厳しく、④家来同士でも喧嘩があったということです。それを古今武家盛衰記の著者は闇将(暗愚な領主)として評価しているわけです。

城の改修については加藤家が会津に入府した目的はそもそもが東北の守りを固め、特に仙台伊達家に対する備えです。蒲生氏時代のマグニチュード7クラスの会津大地震で天守閣は傾き、石垣は崩れ、城下町も2千以上が倒壊しました。その復興と併せて守備力を強化した城に改築する必要がありました。加藤嘉明が会津入府した1627年から没するまでの4年間、息子の明成に対して城の改修が最優先で、そのための基盤として殖産興業をするように下命したことは至極当然です。大手門を北向きに変え、北出丸や西出丸を作り敵の侵入を阻止する(北出丸は別名皆殺し丸とも呼ばれている)などを行なっています。実際には、戊辰戦争に1ヶ月以上も落城せずに耐えた事実が、加藤明成の城改修が当時の幕府の考えた目的を果たしたと言えます。石垣の改修には近江穴太衆の一派で加賀穴太衆の穴太源太左衛門の一族が担当したことが分かっています。

次の金銀に執着という点です。確かに、蒲生氏時代の金山開発に続き、加藤時代に銀山を開発しているので金銀に執着しています。しかし、それは私利私欲ではなく、上方からの借金の返済などに充て、城の改修と城下町の整備をするための殖産興業策です。その意図を知らないよそ者が噂で揶揄しているとしか考えられません。この事業は蒲生家・加藤家・松平家と続き、後年晴れて会津銀判として一両・二分・一分の3種類が発行されています。殖産興業策としての会津木綿づくりも加藤家時代にその基礎があったのは別記事でも書いた通りです。

税の滞納に厳しかったのは古今武家盛衰記の通りかもしれませんし、そうでないかもしれません。真偽は不明です。会津訪問に先駆けて、会津若松城の学芸員に問い合わせましたが、会津若松城の消失した部分を含めて記録も乏しく、また加藤家時代の文献は無いのでどのような為政だったかは分からないとのことでした。ということは、古今武家盛衰記の記述自体も推測や噂の域を出ず、信憑性は乏しいということになります。

最後の家来同士の喧嘩や堀主水の謀反について。これは豊臣家の戦略と経営センスと徳川譜代格として旧三河武士として久松松平家と懇意だった加藤家とともに歩んだ黒田九兵衛の家伝を含めた個人的な感想ですが、①家老職の人選、②仙台伊達藩の調略、の2つを想起せざるを得ません。

もともとの家老は佃十成でした。佃は二代目黒田九兵衛直次が関ヶ原の戦で留守居をした松山の三津浜夜襲で毛利勢とともに戦った家老で、加藤嘉明の10歳ほど年上で、九兵衛直次のひと回り年上です。高齢なため、会津には入府せず松山に残りました。代わって家老に抜擢されたのが堀主水です。堀主水は加藤嘉明の小姓だったので加藤明成よりは年上ですが、戦経験は大阪夏の陣だけです。大坂夏の陣はすでに徳川側の勝利がほぼ決まっていたので、中には次世代の子弟の合戦経験を積ませるために出陣する大名も少なくありませんでした。堀主水は堀に落ちても相手の首をあげたという戦功を誇らしげにしていたようですが、嘉明たちのようなその前の世代の戦功に比べれば見劣りします。家老は戦闘要員ではなく内政を担当する事務方で、佃十成はそれを実直にこなしました。しかし、堀主水は家老職の役目を勘違いしていたのではないかという気がしてなりません。

そして、さらに伊達仙台藩の動きです。会津の前の藩主である蒲生家でも家臣団の対立が頻発しました。1609年から主なものでも4回も起きています。そして、加藤家でも会津騒動です。なぜ、こうも会津では家臣同士の対立が起きたのでしょうか?蒲生氏郷も加藤嘉明も名将の誉高い武将です。しかし、その子はどちらも愚鈍だったのでしょうか?ちょっと考えづらいというのが正直な感想です。大阪の夏の陣のあと、豊臣方は各地に敗走しました。そこで捕縛されて処分されたものが多いのですが、中には匿われたものもいます。四国高知を支配した長曾我部の残党は北の仙台に逃げ延びました。そこでは処罰されずに、伊達政宗に匿われました。長宗我部元親の娘と二人の息子です。息子の一人は家臣の養子に入り柴田朝意と名乗っています。

会津を手中にしたい仙台藩伊達家と四国征伐で恨みを持っていた長曾我部一族とが、会津領内で調略の動きをしていたのでしょう。そのため、会津では蒲生家時代と加藤家時代に家臣同士の喧嘩が相次いだと考えるのは荒唐無稽でしょうか?堀主水はどちらかと言えば藤堂高虎や塙団右衛門直之のように自己の手柄の承認欲求が強い人物だったように思えます。加藤嘉明と加藤明成にとって、城の改修や街道や城下町の整備は公に進める施策ながら、銀山開発・木綿布の開発などは伊達の間者が潜んでいるかもしれない領内で公にせず加藤親子と一部の限られた藩士しか知らないトップシークレットだったのかもしれません。ちなみに、特産品の運搬ルートとして阿賀川の舟運が難事業で松平家時代も続いたことは、国土交通省阿賀川河川事務所の調査が記録に残っています。

城の改修、街道の整備、鉱山開発や特産品開発、阿賀川舟運の開発と、いずれをとっても大事業で、小説に言われるように愚鈍な藩主で、金銀に濫費するような人間にはとてもではないけれど遂行できないような事業ばかりです。そう考えると、日新館の基礎を築いた儒学者横田俊益による「頭脳明晰な人格者である」という加藤明成評価の方が正しいと思えるのです。

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