文化・歴史

450周年記念:黒田九兵衛と加藤家の歴史(1)概略

2023年の今年は黒田九兵衛の初代忠次が織田信長の配下となって家を再興してから450年にあたります。決して有名ではない黒田九兵衛とそれほど有名ではない加藤嘉明との縁を中心に、未発表の記録も踏まえて、個人の解釈を加えて織豊時代から江戸初期を紐解いていきます。

最初に、戦国期から秀吉の時代までの期間を3つに分けて、人物を生年順に並べてみました。現代でもそうですが、決して寿命の長くない当時では10歳も歳が違えば相当上下関係の格差があります。

第一世代は戦国期に生まれた人物です。戦国期は各地の守護大名への反発と下剋上が起こっていた騒乱の時期です。足利尊氏の親戚で固めた斯波・畠山・細川・一色・今川や関東管領上杉氏などへの反発と足利将軍家の腐敗から各地で騒乱が起きていました。近江では宇多天皇を祖とする宇田源氏佐々木氏の嫡流である六角氏とその他の京極氏を含む3家は一枚岩ではなく、京極氏は家臣だった浅井氏に北近江を奪われ追放、京極氏の庶流だった黒田氏も浪人同然でした。明智光秀は年長で、茶人の今井宗久や千利休もほぼ武田信玄と同年代です。のちに徳川家康の生母となり久松松平家の母となる於大の方や加藤嘉明の父の教明も於大の方と同じくらいと推測できます。加藤嘉明の加藤家と久松松平家のつながりはこの頃に端を発しています。

第二世代は、時代の中心人物である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の生まれた時代です。初代の黒田九兵衛忠次も豊臣秀長のちょっと下にあたります。秀吉にとって部下として使いやすい10歳程度の年下クラスには秀吉の初期の頃の重臣だった尾藤甚右衛門知宣がおり、蜂須賀小六たちと秀吉(木下藤吉郎)を支えていました。のちに福岡藩主となった黒田官兵衛や徳川家康にとって頼りとなる四天王の本多忠勝も家康の5歳下にいます。また、三河一向一揆で家康に敵対し出奔した本多正信や渡辺守綱ものちに家康のもとに帰参し、家康の重臣となりました。これには広い心で許すように諭した於大の方の影響力がありました。加藤嘉明の父の教明も帰参する道もあったのでしょうが、秀吉の家臣となりました。しかし、その後の加藤嘉明と徳川家康の強いつながりを考えると加藤教明の役割がなんらかの形であったものと考えられます。

第三世代は、秀吉が近江の琵琶湖北岸の長浜に城を構えて国持大名羽柴秀吉となった時からを区分しています。新たな城持ち大名となると、軍事や内政の両面で大量に人材が必要で、黒田九兵衛も採用され、また浅井氏の旧臣や他の地域からも採用しました。その際に、抱えた小姓衆は賤ヶ岳七本槍として名を馳せたり、七本槍として選ばれなかった石田三成、一風変わった藤堂高虎など興味深い人材が出ています。浜松出身の赤揃えの徳川四天王の井伊直正も七本槍と同世代です。加藤嘉明は最も若く、二代目黒田九兵衛直次はさらに若い年齢になります。

以上の三世代の成年順を踏まえて、年表とその当時のイベントがあった時の推定年齢を整理してみます。

歴代の黒田九兵衛の歩みを順番にまとめると次のような軌跡を辿っています。

これらを踏まえて次回、加藤家と黒田九兵衛の足跡について紐解いていきます。

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