文化・歴史

450周年記念:黒田九兵衛と加藤家の歴史(3)伊予松山

江戸時代の軍事要塞

1598年に秀吉が没すると朝鮮出兵は中止され、帰国して加藤嘉明は35歳で伊予の松前城(まさき)を拝領し、二代目黒田九兵衛直次も同地に地行600石を得ます。現在は城跡もありませんが、黒田という地名は残っています。松山市の南に電車で七駅ほどの距離です。当時は、瀬戸内海の海賊たちがあちこちに城というよりも館に近い程度の拠点をもっており、松前城もそのようなものであったのだと思います。これは東京湾の西房総に点在した里見水軍の城でも同様です。

この2年後の1600年に、徳川家康は軍事力増強を図る会津の上杉景勝を征伐し、関ヶ原の戦いにつながっていきます。賤ヶ岳七本槍も東軍と西軍に分かれましたが三河出身の加藤嘉明は当然東軍につきました。四国から関ヶ原に向かった加藤嘉明は留守の防衛のために、家老の佃十成と久兵衛直次を残しました。

関ヶ原の合戦に際して、毛利軍が四国攻めで滅んだ旧国主河野氏の残党と呼応して侵略を図ったのが、三津浜夜襲(別名:四国の関ヶ原)と呼ばれています。松前城からは北に10kmほどの距離です。佃と直次は上陸した毛利勢に夜襲をかけて数球の首を討ち取って勢力を削ぎましたが、残党が松山市東部の如来寺に立て篭もりました。そこに直次は単身で長刀石(なぎなた石)をもって如来寺の門を破り、単身で乗り込んだところを団扇や指物に7発、総身に5発の銃弾を受け討死にしてしまいます。12歳年上の佃十郎は前日の夜襲で傷を負っており、また隣の今治の藤堂高虎は嘉章と不仲だったこともあり援軍は期待できなかったのでしょう。そうでなければ、そんな無謀なことをするはずがありません。しかし、直次の戦死のかいあって残党は討ち取られ、毛利勢の四国侵攻を阻むことができました。

歴史に「たられば」はありませんが、もし松山を取られていたら関ヶ原の戦いに東軍が勝利しても、中国・四国・九州は反徳川勢力で塗り替えられ江戸時代という歴史は存在しなかったかもしれません。後年、四国松山の城主となった久松松平家が日尾八幡神社に祀られた黒田久兵衛直次の黒田霊社にお参りしたのは、このような理由があっただろうと考えています。

加藤嘉明は右腕の指揮官だった久兵衛直次の死を悼み、弟の松に家督を相続させました(三代目久兵衛忠直)。そして、家康の許可を得て3年後の1603年に松山城の築城を開始します。松山城は壮大な山城です。江戸時代に建造された城とは思えないほどの軍事要塞でもあります。鉄砲狭間が至る所にあり、どの位置でもどの角度からも侵入した敵を狙える構造となっています。また、天守閣からは海を見渡すことができ、夜襲のあった三津浜も日尾八幡神社方面も一望できるのです。松山という位置が中国の毛利氏や薩摩の島津氏を警戒した戦略上の軍事拠点であることがよくわかります。

そんな松山城の完成を目前にして、会津の蒲生氏に世継ぎがないことから、加藤藩は会津に転封となります。松山の20万石でも大きな大名ですが、石高は倍増し40万石を超える会津へ移ることとなるのでした。

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